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vol.004 '70 大阪万国博 (4)

 

2ヶ月ほどでパンフレット集めは飽きてしまいましたが、集めたパンフレット暇なときに何とはなしに見てるとその国がちょっと身近になったような気がします。もっとも、ほとんどが英文のもので、辞書を片手に読まないと内容は、ほとんど解らなかったです。暇なときに辞書など見るはずがありませんから、結局パンフに印刷された 写真を見るだけだったですが。  

万博も5月連休を過ぎて夏に近くなってくるとお客さんがだんだん増えてきます。パビリオンも初めは列が出来たのはアメリカとソ連だけだったのが、フランスとかカナダイギリスなども週末にはかなり待たないと入場できなくなってきます。  

夏休みが始まった7月8月は毎日朝会場の入場ゲートに長蛇の列ができ、開門と同時に何百人が一気に黒い帯となってアメリカ館とソ連館に殺到するのが駅の改札口から見えました。毎日の朝の決まり切った儀式みたいになってましたが、入場ゲートから子供を抱え たり鞄を抱えてパビリオンの間を縫うようにして走る黒い集団は、 感動ものでした。  

最初の頃は、学生気分が抜けなかった私達も、5月連休を越えた頃からはもう立派な戦力になっていました。この頃は学校などほとんど行かないのが粋だと思われてる頃ですから、最低限の出席点呼のある教科だけ出てそれ以外の授業はほとんど出ませんでした。  

勤務は3交代制で、確か朝は8時から16時、夕方が16時から 24時、夜勤が24時から次の日の8時、夕方と夜の勤務時間には それぞれ一回弁当が支給されました。  
私らのように万博の最初からのメンバーは、駅の業務をホームの誘導から券売機、改札夜勤全てを体験していました。器用な奴になると券売機の修理の技術者のテクニックを見よう見まねで覚えてしまい、ちょっとした修理ならドライバー一本で何とかしてしまうも のまで現れました。  

私は元来がパシリの天性がありますから、どんな業務でもそれなりにこなしましたのであちこちの部門で重宝がられました。そうなると新人が入ってきたときの教育係などの仕事が回ってきます。だいたい2日ほど教えているとこいつはどの程度仕事ができるか判断できます。  
どの部門でもとろい奴より仕事ができる奴の方が欲しいじゃないですか。私には当然新人をどこに行けと振り分ける権限はありませんでしたが、的確なアドバイスはできました。正社員のおっさん連中には非常に重宝だったと思います、そのアドバイスは。正社員の25歳以上の人などアルバイトの仲間にはなれませんでしたから、人を振り分けるとき私らの(私以外にも教育係は2,3人いました)ぼそっと言うつぶやきは役には立ったと思います。  

こうなると、正社員もアルバイトも一目置くようになります。自分で楽な時間のシフトを選んだり、ちょっとさぼったりしても大目に見られるようになってきます。こういう古狸は万博中央駅に15人くらいはいたと思います。私の主なる生息地は、教育係をしてないときは主に券売機の裏、そうでないときは改札口でした。

この頃は自動の改札口などなくて人間が全部切符にパンチを入れてました。あのパンチ、手動のものと電動のものが用意されたのですが電動のものはお客さんが込んでくると、切符をもらう・機械の所まで切符を持ってくる・機械のパンチへ切符をつっこむ・穴があく・切符をお客さんに返す、この面倒な動作が必ず必要になってきま す。切符の移動は40cmx2=80cm位になってしまいます。  
手動のパンチだと、パンチと切符をもらう手を両方お客さんの切 符の方へ持っていける、そうすると切符をもらってパンチを入れてまたお客さんに戻すのに20cmほどの手の移動で済みます。何百何千になったときの この差は非常に大きかったのです。  

電動パンチは、よく落っことして壊れましたし、後期バージョンになると電動パンチの下にゴム製の吸盤が付くようになりましたが、それでも落ちるものは落ちました。落とさないまでも、混雑してきて連続で切符を休みなくパンチに通していると突然切符の切りくずが詰まったりして動かなくなったりしました。(電動パンチは、松 下電器製でした)  

最終的には、ほとんどのアルバイトが、手動パンチを選びました。 私はと言えば、30年近くたった今でも、手動パンチを使った切符の早切りまだできます。