「古文書館」
海外旅行昔々物語 〜海外旅行研究会の足跡〜
 vol.01
海外旅行−現代の日本人がもっともやりたいと思っていることのひとつである。
今から34年前、日本人にも海外旅行が出来るようになった時、
若ものはどのような海外旅行をしていたのだろうか。
これは海外旅行を目指していたあるグループの行動記録である。

第1章 海外旅行研究会の12年

海外旅行研究会は1964年・昭和39年から12年にわたって活動を展開した。その主な動きをまず明らかにしよう。

オリンピックで明け暮れた 1964年・昭和39年

この年は文字通りオリンピックで明け暮れた。太平洋戦争で敗れたわが国が、戦後の再建に乗り出して約20年。アジアで初のオリンピックが開けるまでに、急速な成長発展を遂げた。その高度成長の立役者池田首相が病気で退陣し、新しく佐藤内閣が登場した。高度成長は一方で色々な歪みを生み出し、いわゆる公害問題が社会的な関心を集めつつあった。

ところでこの年、もっとも大きな出来事があった。外国為替の自由化にともない4月1日から一人年間500ドルの枠内で、観光のための海外旅行が自由に出来るようになった。戦中、戦後を通じて閉ざされていた海外への門戸が開かれた、記念すべき年だった。

当時のわが国の経済事情、とくに外国為替収支は輸出がようやく軌道に乗って、7〜8億ドルの黒字が出始めたばかり。しかしこれをさらに伸ばし、世界の大国の仲間入りをするためには、OECD(経済協力開発機構)に加盟しなければならない。それには貿易以外でドルを制限している部門、例えば海外旅行などを自由化することが加盟の条件になる。しかし自由化で日本人がドッと海外へ出て行ったら、貿易収支はたちまち赤字になってしまう。そこで出国税や税務署への通告という一種の嫌がらせも考え出された。だが国連やOECDなどからの横槍が入り、結局一人一回500ドルの制限付きでならということで、ようやく自由化が実現した。


この年の4月にマレーシアのクアラルンプールで第4回アジアユース・ホステル会議が開かれた。私「辻井」はこれに参加するため、初めて海外旅行をした。この旅行中私が現地で過ごした10日間は、私の人生におけるもっとも多彩な経験として心に刻み込まれた。この体験から私は海外旅行の持つ大きな意義と、これが今後の社会の大きな流れとなるであろう事を確信した。私が得たような海外旅行の貴重な体験や満足感を、一人でも多くの若い人たちに味わって貰いたい、と考えるようになった。    

<そのために私に何が出来るだろうか>
帰国する飛行機の機上で、私の頭の中はそのことで一杯だった。帰国後、私が最初に手掛けたのは、同好者のためのグループ作りだった。大阪ユース・ホステル協会の機関誌を通じての呼びかけに応じて、数人の若ものが名乗りを上げた。これらの仲間によって、海外旅行研究会は歩みを始めた。

海外旅行研究会は当初から大阪ユース・ホステル協会の所属グループとして発足。したがって、協会の機関誌を通して会員の募集を始めた。最初の年は発足後間もないこともあって、どんな活動をすればいいのか、まったく見当がつかなかった。海外旅行の経験者というのも、ザラにはいなかった。そこで本会の存在をPRすることから始めた。 結局この年だけで38名の新人会員があった。しかし海外旅行の経験者は私(辻井)一人だけだった。そこで私を中心に指谷 昇君などの協力で会が運営された。当時の会費は入会費が100円、例会費が50円だった。

*月例会報告

7月11日 
本日付けのYH新聞大阪版に、本会からの呼びかけの記事が掲載された。これに応じた数人の有志によって、本会の結成が決議され活動方針が練られた。

10月24日
難波の大阪府立体育会館会議室で、初めての集会が開かれた。ゲストに松井澄氏(元JTB高槻研修所講師)を迎え、「海外旅行そこが知りたい」というテーマで話し合った。参加者は30名。

12月11日
JYH新聞大阪版に再び呼びかけ記事を掲載。


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