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トラベルメイトトラベルメイト95

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「トラベルメイト95」
  1. 【全体を見るため高台に上ると】

     やっと航空券の話が一部終わりました、完璧に理解するにはまだまだマニアックな話が続きますがこのくらいでやめておきましょう。旅行者として利用するだけならば今までの話を理解して頂くだけで十分です。ちょっと疲れてきたところで、あまりにも今まで地を這うような話を休んで高台か、一番高い木に登って回りを見渡してみましょう。良い景色です、トレッキングシューズの選び方からテントの張り方、携帯食料の買い方、料理の仕方、ロープワーク、これらも大切なことなのですが一通り出来るようになった人にとって今度は気分のいいところでのひと休み、ちょっと物思いに耽って見ませんか。

     簡単な航空券とか、パッケージの日本での流れは前編で話をしました。歴史的にはどうなんでしょう。アレキサンダー大王とかジンギスカンの話は、冒険旅行と取るにはまだまだちょっと早すぎます。マゼラン、バスコダガマ、コロンブス等の時代も、まだ早すぎます。イギリスの東インド会社の時代も、アメリカへのピルグリムファーザーズの時代も、団体個人問わず普通の金持ちでもまだ観光旅行には行けません。観光旅行が最初にスタートしたのはイギリスにおいてでした。それは一八四一年、イギリスにおいてトーマスクック社の観光旅行からになります。個人でそれまでに船会社とか汽車、馬車等の会社に直接交渉して純粋に楽しみのために旅行をした人はたくさんいるでしょう。ですがそれらを組み合わせて、代理で手配を始めたのはトーマスクック社です。

     それまでの色々な遠征は目的が富を築くための物であり観光的な楽しみは当然あったでしょうが、経済的な生産活動としての物でした。ところがトーマスクックが始めた会社は、観光としての旅行を本格的にスタートさせました一八四一年七月五日のことです。もちろん楽しみのための旅行を代理で手配していた個人または会社はもっと前からありました。ルーツをたどれば紀元前にさかのぼれるくらいです。ただ普通の人が観光(ツーリズム)に出かける時代の最初のランナーは、トーマスクック社だったのです。

    *これらについてもっと詳しく知りたい人は「中央公論社のトマス.クック物語」を読んでください。*

     この当時のイギリスは経済的にはピークを迎え、全世界の富がここに集中していたころです。日本が経済発展を遂げ円が段々強くなり海外旅行が一般化し始めた一九六〇年代に似てませんか?

     この様に観光旅行はまずその国の経済発展が前提になります。

     経済発展があって富が蓄積し始め、そうそうに食べれる中流階級が出来てそこのエンゲル係数が低くなり、ラジオとかTV、電気冷蔵庫とか洗濯機が当たり前になって、服装もあか抜けてきて、さて次なる遊びは国内の団体旅行。そして若い人の国内個人旅行が盛んになって、「かに族」−−特に北海道に出没した旅行者で、満員の汽車の中をリュックを背負って横向きにかにのように移動したことからかに族と呼ばれました−−の発生、こうなるともう少しで特に暇な学生の間(学生以外は、仕事で海外に出かける他はまだ遊びで出れる暇もお金もありませんでした)で海外旅行が爆発的に流行する兆しが出てきます。

     一九六〇年代の日本ではまだ普通の学生がアルバイトでお金を貯めて旅行に行けるほどの条件は整っていませんでした。日本円はまだ三百六十円でしたし、アルバイト料金も八時間で千円とか千二百円くらいですから普通の会社員とか職人の子供では直ぐいつでも旅行に出発できるわけではありません。もちろん親たちはもっと海外旅行から縁遠くハワイにご隠居さんが四泊六日で出かけるなんて事になりますと、町内会で餞別を出すような騒ぎになるころだったのです。

     六十年代後半になるとかなりマニアックな連中が四苦八苦しながら南回りの船を使った(この時の船はMMラインといいます)コース、ナホトカからシベリア鉄道を使ったコースでヨーロッパへ出かけていきました。

     例えば一九六四年の四月の朝日新聞によれば「ソ連ルートに人気」と題しての記事があります。それによれば横浜からナホトカまで船、ナホトカからハバロフスクは汽車、ハバロフスクからモスクワへは飛行機実質八十時間ほどの旅で食事付きで二百六十US$、九万円あまり、ヘルシンキへは後一万円プラスで計十万円、MM利用の場合ツーリストクラスで二十万円でフランスのマルセイユまで約一カ月、当時の飛行機のエコノミークラスの運賃は片道で約二十五万円、シベリア経由の安さが目立ちます。

     それにしても今から思えばシベリア経由でも非常に高い料金です。ほとんどの旅行者は一生に一度の大旅行の感覚で出発していったのです。卒業して普通の生活をする分には二度目の海外旅行が出来るとは思わなかったのです。(学生の旅行ばかり取り上げていますが普通の人で海外の個人旅行を簡単にやれるとしたら学生しかいなかったのです、学生以外の自由業とか無職のひともいるにはいましたがホンの少数でした。)

     一九六四年四月は海外観光旅行が自由化になった年です。
    アメリカへわたった連中もいるにはいたのですが、ヨーロッパに比べてどうしてか数は多くありませんでした。たぶん、現地の滞在費の高さとアメリカへはいるまでの料金の高さがネックになったと思います。留学先としてはかなり人気はありました。(この頃のアメリカはこの世の春です、US$は強い、自動車産業も、IBMもパワーあふれていました)

     ちなみにアムステルダム辺りのアルバイト料金はレストランのウエイターで一時間二百円から三百円位だったようです。

     一九七〇年には大阪で万国博覧会が開かれました、この辺りからです経済力が倍々で大きくなっていったのは。それにつれノーマル航空券しかなかった旅行の業界に割引の航空券を売る会社が出来始めました。皆さんが日頃利用している割引航空券(格安航空券とも言いますが)のルーツは一九六九年から七〇年ころにかけてです。

     ヨーロッパへの学生が使えるような料金の航空券はJISU(日本国際学生連盟)が売り出した、カイロ経由のエジプト航空が最初だったように思います。他の航空会社でも普通運賃より安い便はあったのですがそれでも学生には高すぎたのです。

     一九七五年ころには今の割引航空券屋の原型はほぼできあがっていました。JISU、トップナッチ、ITU、日米協会、スカイメイトクラブ、キャンセルクラブ、サンケイ旅行、プロコ、JTS、ISWG、フロンティア、IFF、このほかにたくさんありましたが面倒なのでこのくらいにしておきます。今まだある会社もありますが名前が変わったり、消えてしまったりしたところもあります。(この辺の数社覚えておくと、オー出来るねと言われますよ)

     七〇年代は割引航空券には完全な市民権はありませんでした。使うのは学生、自由業、外資系の会社、経済観念の発達している中小の貿易会社、各国大使館、在日外人、等で社会の一般的な部分には無視されたままだったのです。この頃の一番良い広告媒体はジャパンタイムスのTRAVEL欄でした。後は大学のビラ貼りくらいだったでしょうか、割引航空券は胡散臭いグレーゾーンのままだったのです。

     七〇年後半から学生マーケットに、あの地球の歩き方で有名なダイヤモンドビック社、大学生協などが春夏の休みに合わせて学生向けのツアーとか航空券を売り始めました。八〇年代はじめにはリクルート社も学生向けのツアーを売り始めます。このあたりから学生向けの安い海外パッケージツアーと同時に普通運賃ではない割引航空券が表舞台に登場し始めます。

     この頃は日本経済が信じられないくらい成長を始めるときでした。もちろん富は日本に集まり始め、一般の人達も生活水準が上がってきます。純粋に消費に向けれるストックが出来始めたのです。日本円はどんどんあがり、その割には航空券とかパッケージの料金は据え置きか下がりました。こりゃあもう海外旅行に出るしかありません。一般の人も若い世代を中心にして、長くはない休暇をやりくりしながら旅行に出始めます。

     八〇年代はバブルの時代を迎え経済はどんどん膨らんでいきます。不動産金融業界を中心として社員旅行招待旅行は花盛り、もちろんいつの時代にも暇な学生さんたちは旅行にマニアックな連中でなくとも卒業までに一回は旅行に出なければ一人前じゃないと言うくらい海外旅行が必須の物になっていきます。卒業旅行と言う言葉が流行ったのも八〇年代です。三年生までに海外に出れなかった人は少なくとも四年生の卒業が決まってから、就職するまでの間に一回は旅行に出ると言うことだったのです。

     バブルがとうとうはじけ始めた八〇年終わりから九〇年始めに掛けてはさすがに今まで通りの旅行者の増加はありませんでしたが、そう急激に減ることもありませんでした。海外旅行者が一千万人を越えたのも九〇年に入ってからです。一般家庭に三種の神器であった電気製品が、家電と呼ばれる一般商品となってディスカウントショップに並ぶようになったと同じく、学生とか自由業のような特定な階層ではない人がどんどん旅行に出るようになります。それに引っ張られるように子供連れの家族も旅行に出始めます。この頃には近所のお年寄りがしかも夫婦でハワイ旅行に出かけたとしても町内会で餞別を集めるどころではなく、「ここ二、三日姿を見ないけど、中村さん夫婦どうしたかね」「ああ、ハワイにまた一週間ほど行ってるよ。」のような会話かさらっと交わされるだけになったのです。やっと九〇年代になって日本にも大衆観光時代がやってきました。

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